東北伝説紀行

福島県郡山市 旧福島県尋常中学校本館(安積歴史博物館)

「白河以北一山百文※」と言われた地に新しい国を作るべく、荒れた原野に水を引き、開墾した「安積開拓」。その背景と、関わった人たちの想いを宿し125年もの間、同じ場所で街を見守ってきた木造校舎。その背後に刻まれた歴史をここにたどってみよう。

草木も生えない原野を開墾し、水を引き発展の礎を築いた人々

時は明治6年(1873)。「明治維新」と呼ばれる改革により、政府による新しい国づくりが始まった。その東北開発の先駆けとして選ばれたのが、ここ郡山「安積野(あさかの)の地」だ。かつて「大槻原」とよばれた未開拓の野原。そこに当時の福島典事中條政恒、そして阿部茂兵衛ら25人の郡山町の代表的な商人たちが鍬を入れることから、この開拓事業はスタートした。やがて新天地を求める多くの人々が全国から集まり、荒れた原野を豊かな大地に変えていったという。さらに明治9年(1875)、中條は、下検分のため郡山を訪れた内務卿・大久保利通の宿舎まで足を運び「県の事業として立派な開拓を行った」こと、さらに「安積野全域に開拓を拡大するために、猪苗代湖の水を引くべきである」ことを主張。もともと殖産興業と士族授産が持論の大久保と中條の考えは一致し、明治政府の士族授産政策と関連した国営事業として進められることとなった。いわゆる「安積開拓」だ。

特に水利が悪かったこの地に、猪苗代湖から山をまたいで水を引く、安積疏水(あさかそすい)の開さく事業は、のべ85万人の人々が携わる大事業となった。費やした年月はおよそ3年。このとき九州の久留米をはじめ、全国各地の8つの旧藩から士族が移住し、郡山市が発展する基礎を築いたといわれている。

かつて御殿と呼ばれたルネサンスの面影漂う新時代の洋風校舎

福島に開校した「福島中学校」が、この安積開拓の地につくられた新校舎に移転したのは、明治22年(1889)3月のことだ。「新しい国」を目指す村人たちは、教育にも力を注いだ。そして中学校誘致のために所有地を寄付し、さらに新校舎建設のための労働力も惜しみなく提供した。そうした人々の想いをのせて完成したのが、この洋風校舎である。この校舎は当時の安積郡桑野村にちなみ「桑野御殿」と呼ばれた。

木造2階建ての建物は、イタリア・ルネサンス風。基礎は、安山岩の切石積みで、正面玄関は八角形の板石を敷きつめた。下見板張りの外壁にはシンプルな上げ下げ窓が連なる。館内には長い廊下が続き、その両側には、かつての職員室や教室が並ぶ。廊下は羽目板を張って腰壁を作り、天井は小巾板と巾広の板を交互に数枚ずつ張ってある。講堂の天井には、ローソク用のシャンデリアをとりつけるなど、随所に洋風建築の要素を取り入れた。

かつては賊軍とのそしりを受けた人々が夢見た新しい景色

昭和52年(1977)6月には国の重要文化財に指定。翌年昭和53年(1978)には初期の建築を再現するため、文化庁の指導により半解体修理工事が行われた。実に総事業費2億円をかけ、腐朽、破損箇所及び補修補強等に必要な部分を解体し、各部を修理。さらに創立100周年を迎えた昭和59年には、「安積歴史博物館」として生まれ変わり、一般公開されるようになった。平成23年の東日本大震災で大きな被害を受けたものの、復旧工事によって現在は往時の美しい姿を取り戻している。現在は仮オープンの状態だが、来る平成26年9月6日(土)には本オープンし、同日は記念式典も開催される予定だ。かつて戊辰戦争に敗れ、賊軍のそしりを受けた会津藩。「白河以北一山百文(しらかわいほくひとやまひゃくもん)」と蔑まれたこともあった。しかし新しい景色をゼロから創ろうとし、労も財もいとわず注ぎ込んだ人々の想いが、現在の郡山を創った。この木造校舎は、そうした知られざる歴史と村人たちのフロンティアスピリットを宿し、今へと語り継いでいるのだ。

※白河以北一山百文
「白河の関(福島県白河市)より北は山ひとつ百文の値打ちしかない」の意。明治維新の際、薩長が東北の地を評した言葉。

さあ「伝設」をその目で見よう!

旧福島県尋常中学校本館
(公益財団法人安積歴史博物館)
●住  所/福島県郡山市開成5-25-63
●交  通/J東北自動車道 : 郡山インターチェンジから5.5Km
東北新幹線:郡山駅から3.5Km バス:安積高校下車
●開館時間/10:00~17:00
●料  金/一般300円 高・大生200円 小・中生100円 ※9月6日までは入館無料
●休館日/月曜(祝日の場合は翌日) ※9月6日までは火・木と、土・日曜、祝日のみ開館
●詳しいお問い合わせは/TEL.024-938-0778
ホームページ http://anrekihaku.or.jp/