東北伝設紀行

岩手県盛岡市 岩手銀行旧本店本館

「岩手銀行旧本店本館」は、平成8年当時では「現役」の重要文化財として、全国で初めて定められた建造物である。そこには、昭和初期の盛岡を生き生きと感じさせるさまざまなエピソードが息づいていた。今回はその歴史を紐解いていこう。

辰野金吾と葛西萬司の両氏によって建てられた明治末期の洋館

竣工は1911年(明治44年)。着工からおよそ3年もの歳月をかけ建てられた。屋根は銅板及びスレート葺き。そして躯体には約91万個ものレンガが使用されている。設計は辰野金吾、そして地元・盛岡出身の工学士であった葛西萬司の両氏だ。設計者の一人である辰野は、明治12年に工部大学校(後の帝国大学工科大学、現在の東京大学工学部)造家学科の第1回卒業生。明治16年英国留学から帰国。後に同大学校教授、学長、建築学会会長を歴任した建築家だ。東京駅や日本銀行本店を始めとする数多くの設計を手がけ、それらがずば抜けて堅牢であることから「辰野堅固」とも呼ばれたという。その評判を裏付けるように、その多くが当時の姿を今に残し、ほとんどが重要文化財となっている。もう一方の葛西は12歳で上京した後、慶応義塾、第一高等中学校を経て、1890年(明治23年)に帝国大学工科大学造家学科を卒業。その年に日本銀行建築課へ技師として就職し、そこで出会った辰野金吾と共に建築の仕事に携わった。1903年(明治36年)8月、辰野と共に開設した辰野葛西建築事務所は、当時建築事務所と言えるものがほとんどなかった日本において、その先駆けとなった。

この建物に見られる「赤レンガに白い横縞、緑色のリブの独特なドーム」という様式は、東京駅に代表される「辰野式ルネサンス」の典型だ。内部には木製飾柱を用い、天井に漆喰レリーフを施すなど豪華な内装は、明治期の銀行建築の姿を良く示している。外壁の胴蛇腹と窓台、窓のアーチ部とまぐさ楣部に白色花崗岩でバンドや彫刻飾りを華やかに施し、横線を強調。スレート屋根には銅板レリーフを施し、凸凹の多い平面計画で建物に陰影をつけている。構造的にはレンガ組積の外壁が独立し、木造の横架材で上部床を支え、木造小屋組が外壁の上に乗った2階建て(一部3階建て)だ。

1・2階吹き抜けの営業室を中心に、2階各室が営業室を見下ろす吹き抜けに面した廻廊で結ばれ、営業室上部を支える木製飾柱のコリント様式柱頭、天井漆喰レリーフ、各室入口枠の彫刻などがクラシカルな雰囲気を生み出している。一方、各所で灯数の異なる照明器具などにはヨーロッパ近代デザインを採用し、当時の流行も取り入れていた。ちなみに辰野が手がけた建築で東北に残る唯一の作品でもあり、その意味でも見るべき部分は数多い。

実に100余年もの間銀行として機能し続けた稀有な建物として

多くの歴史的建築が、当初の用途とは別の資料館や記念館などになる中、この「岩手銀行旧本店本館」は、つい先日まで、竣工当時と同様「銀行」として使用されていた点でもユニークだ。元々盛岡銀行は、盛岡の実業家が興したものであったが、1931年(昭和6年)の岩手県金融恐慌で破綻。この救済として岩手県の主導で岩手殖産銀行(現在の岩手銀行の前身)が設立され、継承されることとなった。その5年後である1936年(昭和11年)より、建物は「岩手殖産銀行本店本館」として、また1984年(昭和59年)に岩手銀行本店新社屋が完成した後は「岩手銀行中ノ橋支店」として使用された。建物での業務が終了したのは、つい3年前の平成24年8月。実に100年以上もの間「銀行」として機能し続けたことになる。

実は建物の所有者が盛岡銀行から岩手銀行に移った最初期、赤い化粧煉瓦の外壁を白モルタルで覆っていた期間がある。その理由として、一説には「赤レンガの外観が【赤字】を連想させるため、イメージを一新すべき」との声があったからと言われている。しかし過去の写真を見る限り、昭和35年の時点ではすでに赤レンガに戻されていたようだ。やはり、あの「辰野建築」の象徴とも言える赤レンガを上に白く塗り込めることに、気がとがめる者が多かったのだろうか。白モルタルは、当時の行員らが塩酸を使い、手作業でコツコツと落としたと言われている。歴史的・美術的な価値を持つ建造物として。岩手経済の要所として長きに渡り活用されてきた場所として。そして近代盛岡が迎えた大きな時代の波。「岩手銀行旧本店本館」はこの先もずっと、盛岡の町の象徴であり続けるのだろう。

さあ「伝設」をその目で見よう!

岩手銀行旧本店本館
●住  所/岩手県盛岡市中ノ橋通1-2-20
●交  通/盛岡駅からバスで15分→盛岡バスセンターから徒歩で2分
※平成28年夏頃まで保存修理工事のため、現在は外観のみ見学可
TEL.019-623-1111 (岩手銀行代表)