高層ビルが林立し、道路が拡幅され
時とともにかつての面影を失っていく仙台市都心部
しかしそんな時代の趨勢から取り残されたように
佇む洋館がある。さて、どのような経緯でここに建てられ
どのような事情で今に残されてきたのだろうか
町中の喧騒にあって、そこだけ時間が止まってしまったかのような不思議な佇まいを見せる洋館がある。門の脇に「宮城県知事公館」の名を掲げるその建物は、1921年(大正10年)の建造で、青色の瓦を頂き2段階に勾配のついたフランス式のマンサード屋根(注1)が実に印象的だ。太くて立派な威厳漂う玄関ポーチの円柱、そして柱や梁を外観に見せるハーフティンバーを意識したモルタル壁の躯体が英国的建築様式の影響も感じさせる。
藩政期、この洋館が建つ広瀬川左岸の仙台中町段丘と仙台下町段丘との間の段丘崖上には、対岸の仙台城を囲むように上級家臣の邸宅が連なっていた。この館が建つ敷地も、もとはそうした上級家臣の邸宅の一部であったという。
ときは元禄8年(1695年)、第四代仙台藩主伊達綱村の家臣であった田村内蔵允顕行(たむらくらのすけあきゆき)が、主君から屋敷を賜った。田村は綱村に請い、広瀬川に澱橋を架け、北二番丁西端から澱橋北詰に下りる坂を整備した。人々はこの田村邸の坂を新坂と呼び、仙台城下の大坂、扇坂、藤ヶ坂、元貞坂、茂市ヶ坂、石名坂に新坂を加えて仙台七坂と称したという。
明治維新後の明治元年(1868年)、同邸は当時の仙台市長・山田揆一が購入し、米国バプテスト婦人外国伝道協会から派遣された宣教師らへ貸し出された。宣教師らは明治23年(1890年)、婦人伝道師養成のため私塾を開き、やがて現在の尚絅女学院の前身となる尚絅女学校を開校。その後、山田弘衛戍(陸軍)病院長邸宅、第二師団長(第9代中島正義中将)官舎として使用され、また、終戦後に米軍へ接収された後は駐留軍東北司令官(第16軍団ブライアン少将)官舎になった。
その後、東北財務局に返還された建物は宮城県に譲渡され、昭和33年(1958年)、建物の一部を増改築した上で児童会館として開館した。敷地内には県内唯一のグローブンヤングル(球形の回転遊具)が備えられ、その静かで広い環境は子どもの情操を育むと好評を博したという。
現在のように「知事公館」として活用され始めたのは昭和40年(1965年)のこと。その用途は諸外国の大公使、皇族等賓客を接遇する迎賓館であり、昭和57年(1982年)及び昭和61年(1986年)には浩宮殿下(現天皇陛下)が来館されている。
一方、西洋の趣きある建物と大きく趣向を違えた正門は、大正9年(1920年)に取り壊された仙台城の中門の部材を使用したものだ。訪れた者が思わず居住まいを正すほどの威厳ある佇まい。現在は仙台城の面影を伝える唯一の遺構として宮城県指定有形文化財に指定されている。切妻造で本瓦葺きの四脚門。門扉は移設時に新造され、昭和46年(1971年)の改修でシャチホコが、留蓋には波うさぎがのせられた。現在は一般公開も行われているほか、結婚式などイベント貸し出しもされている。
藩政時代から仙台市の変遷を見守ってきた建物は、この先どんな未来を見守っていくのだろうか。
注1:マンサード屋根/17世紀のフランスの建築家フランソワ・マンサールが考案したとされる屋根で、寄棟屋根の外側の4方向に向けて2段階に勾配がきつくなる外側四面寄棟二段勾配屋根。天井高を大きくとったり、屋根裏部屋を設置したりするのに適している。
さあ「伝設」をその目で見よう!
宮城県知事公館
●住 所/宮城県仙台市青葉区広瀬町5-43
●営業時間/9:00〜16:00
●休 館 日/年末年始及び祝日
●見 学/無料
●TEL/022-211-2212(宮城県総務部秘書課総務班)
※営利目的、政治・宗教活動、弔事を除く、結婚式・祝い事や食事会などへの貸し出しを実施
※貸し出しのない日時・時間帯は無料で見学可。事前に利用状況等をお問い合わせ願います。
https://www.pref.miyagi.jp/site/gvroom/hisyo-page-6.html